Jump to Navigation
Jump to Entries
- 2009~11
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
01.18,2005 CATEGORY: 映話
北の零年
評価:★☆監督:行定勲
製作総指揮:岡田裕介 坂本眞一
脚本:那須真知子 企画:遠藤茂行 木村純一
音楽:大島ミチル
撮影:北信康 照明:中村祐樹 美術:部谷京子 編集:今井剛 時間:168分
出演:吉永小百合 渡辺謙 豊川悦司 石原さとみ 大後寿々花 石橋蓮司 柳葉敏郎
香川照之 安部サダヲ 石田ゆり子 鶴田真由 大口広司 忍成修吾 大高力也
今や日本映画を背負って行くほどまでに出世した行定勲の最新作。
岩井俊二の助監督をしていたと思ったら、
数年で制作費15億の大作映画を作るほどになってしまった。
主演は本作が映画出演111作目となる吉永小百合、それにハリウッド進出で注目を浴びる渡辺謙。
この映画は北海道移住にまつわる苦節を描いているのだけれど、
船山馨の小説「お登勢」や「石狩平野」が参考文献としてクレジットされている。
吉永小百合はこの2つの小説の映画化を望んでいて、
実際企画もされていたのだけれど、今の今までまとまった話になることはなかった。
それが今回の映画でついに実を結んだというわけだ。
映画は史実を基に作られている。
江戸時代、稲田家は徳島藩支配下にある淡路を治めていた。
稲田家は城代家老ではあるが大名並の1万4500石を領している。
つまり稲田家は実質大名同然の立場にあったのだ。
そのため、稲田家家臣は徳島本藩ではなく稲田家直属の陪臣であることを誇りに思っていた。
明治2年、明治政府が新たな制度を設けると、武士は士族と卒族に分けられた。
これによって、家老職にあった稲田家の当主は一級士族になりはしたが、
彼の家来に過ぎなかった家臣たちは士族よりも低い身分である卒族とされてしまった。
この処置を不満とした稲田家は分藩独立運動を起こす。
徳島本藩はこれを叛逆と見なし、明治3年5月稲田家および家臣の家屋を襲撃放火。
稲田家は手痛い被害を被った。
これを受けて、明治政府は徳島本藩側の首謀者に切腹、流罪などの厳しい処分を下し、
稲田家側には藩と分離させるため、北海道への移住を命じた。
この一連の騒動を「庚午事変(こうごじへん)」と言う。
稲田家は北海道への移住を始めた。
明治4年、第一次移民団546名を乗せた船が半月をかけて北海道へと辿り着く。
寒さに厳しく、とても人の住まう土地ではないと聞く。
不安のないものはいなかった。
けれど、やるしかなかった。
到着も早々に小松原志乃は先遣隊として先に開墾を始めていた夫、秀明と再会する。
その横には娘の多恵がいた。
久しぶりの再会を喜び合う家族。
さぁ、これからだ!
何もないこの地に我らの国を作ろうではないか!!
秀明が煽る。
希望に燃える稲田家。
殿が来るまでに、必ずしや緑芽吹く淡路に負けない美しい国にしよう、と。
果たして北海道の冬は厳しかった。
淡路の作物は育たず、そのことを一層引き立てるかのごとく様々な困難が彼らを取り囲んだ。
北の零年、壮大にして偉大な史実が幕を開ける。
映画は、「ゼロからの出発」「日本を盛り立てよう」「正論が言える日本を」、
というコンセプトから始まっている。
その志は素晴らしいと思うし、
それを結果を残しているとはいえまだ40にも満たない若手監督に任せるとは、
東映も随分と粋な計らいをするものだ。
豪華俳優陣を背に、シネスコサイズで雄大な北海道を切っていく様は、
これからの日本映画、日本の原動力とまでなりえる力を秘めている、はずだった。
吉永小百合は絶大な集客力を持っている。
映画館はハウル同様にヒトヒトヒトで埋め尽くされていた。
年齢層は、もちろん彼女を推進する高齢層。
この大作は彼女抜きには生まれなかっただろう。
失敗するわけにはいかないのだ。
少なくともこの莫大な15億という製作費分は稼がなければならない。
しかし皮肉にも、このことが映画の質を落としてしまっている。
本来、吉永小百合演じる志乃の設定は20代から40代であるべき。
吉永小百合は確かに美しい。そして、かわいくもある。
だが、彼女のアップ、笑顔では実年齢を隠しきるに至らなかったのだ。
あぁ、何と言う悲劇だろう。
渡辺謙との夫婦役は、設定を無視すれば十分受け入れられる。
が、この映画の設定では、妻は渡辺謙と同年齢、もしくは若くなければ成り立たないだろう。
このことは日本の映画女優の欠如を表している。
吉永小百合はこの物語にこだわりがあった。
そして、彼女でなければ映画が成り立たない。
……不釣合いでも何でも引き受けるほかになかっただろう。
個人的に、ifのキャストを考えてみる。
松嶋奈々子はどうだろう。
渡辺謙と松嶋奈々子。ダメだダメだ。似合ってない。
小雪は少し力強さに欠ける。
松たか子はどうか。
もう少し年齢を重ねれば、役に負けない芯の強さを演じられるかもしれない。
もちろん、これでは今回の規模に迫ることすら出来ないのだけれど。
まず、俳優による感情移入の問題を指摘した。
次はシネスコサイズによる景観について。
絵コンテの時点で、この雄大かつ優美な北海道を活かそうとは思わなかったのだろうか。
残念ながら、本編ではその美しさが十分に伝わってこない。
冬の厳しさという点すら説得力がなかった。
美しさの中に牙剥く自然の恐ろしさというものがまったく表現されていない。
前半はまだ評価出来る(それにしたって不満はある)のだけれど、
後半に至ってはシネスコサイズの放棄すら感じられた。
これは行定勲という観点から説明することが出来るかもしれない。
彼は岩井俊二の助監督時代の流れからか、よく篠田昇系列の人と組んで映画を作っていた。
今回の「北の零年」も篠田昇が撮影を担当する予定だったそうだ。
それが突然の訃報により、断念せざるをえなくなる。
そして、彼の偉大さがここでも感じられるという結果になってしまった。
今回、撮影を担当した北信康とは、森田芳光とよく組んでいる人である。
今思い起こすと、そのような映像が確かにあった。
この映画だけで断定するのはまだ早いと思うのだけれど、
行定勲の目指すものと北信康の映像とは色彩感覚が違うのではないか。
誠に恐縮なのだけれど、素人が偉そうに書くのだけれど、
今まで組んできた福本淳氏のほうがよりよい結果を得られた気がしてならない。
これで最後だ。
これまで挙げてきたものより、さらに重要な部分が映画にはある。
それは脚本だ。
観客を引き込む素晴らしい脚本がなければ、話にならない。
残念ながらこの映画の脚本はとてもじゃないけれど、15億をかけてまで作る出来ではない。
物語の風呂敷を広げるまでは良かったのだけれど、
肝心のメッセージが申し訳ない程度にしか書かれていないのだ。
そこに一切の感情は込められていない。
ただ、言葉があるだけだ。
この素晴らしい志に溢れた作品を締めくくる言葉が、棒読みでは泣けてくる。
最後まで観れば、誰もが思うだろう。
これは劣化ハリウッド映画だったのかと。
脚本を読んで作ろうと思った云々監督が言っていた気がするのだけれど、
それはコンセプトの段階であって、
彼が本当にこの脚本をヨシとしたとは思えない。思いたくない。
行定勲監督自身が脚本を担当すべきだったと思うのはぼくだけだろうか。
はっきり言ってしまって、この映画は行定勲の汚点である。
彼には物語りで集客出来る監督になってほしい。
というよりも、「世界の中心で愛を叫ぶ」までは順調なステップを踏んでいたのになぁ。
その流れのピークでこれとは……。
反省点を活かしての次回作に期待。
映画の興行はこれからが勝負だし、封切から言えば成功しているとも言えるので、
この映画の評価は実は高いところに落ち着くのでは、なんて思っている。
ここまで毒を吐いたぼくが言っても説得力がないかもしれないけれど。
劣化ハリウッドというのが1つのキーワードかもしれない。
日本は……、ハリウッド……、大好きだしね……。
それすら意識して作り上げたとして、
もしも成功を収めたのなら行定勲という人は鬼のヒットメーカーだなぁ。
作品の質ばかり書いてしまったので、内容、意味、感想を補足する。
ターゲットは吉永小百合を好む層。
そして「ゼロからの出発」という物語。
団塊の世代やさらに上の世代がこういった物語に触れと、どのような気持ちになるのだろう。
それはそれは単純な予測なら出来る。
けれど、観る者それぞれの背景があるわけで、「何がゼロから」だよ、
奇麗事いうんじゃないよ、なんて思う人もいるだろうな。
いるにはいる。でもまぁ、それがマスではないでしょう。
ぼくがひねくれてる。きっと。
身勝手な上層部批判は痛快だった。
今「さぁ、我らの国を作ろう」という正論は中々言いづらいものがあるだろうに。
これを語るにはやはり吉永小百合しかいないのかもしれない。
彼女の後は、吉岡秀隆が引き継ぐのだろうか。
ポジションの意味として。
宮崎あおいはどうなのかなぁ。
吉永小百合のようにはならないだろうな。
うーむ。やっぱり偉大な人です。
COMMENT
TRACKBACK
URL: http://inthechikyu.blog1.fc2.com/tb.php/117-dc1d8619
- 290jap.com / 01.19,2005
- おいらの感想だけを一方的に押し付けるのはあれなんで、他の方の感想ブログ紹介してお